砥部町や砥部焼の歴史を紐解くことにより、砥部の真の魅力を発見し、より深い感動を得ることができます。
ABOUT TOBE
砥部町の名前の由来をご存じでしょうか?実は、刃物を研ぐために使用される砥石が関係しています。砥部では古くから砥石の切り出しが行われていました。残存する文献の中で最も古い記述によると、奈良時代に正倉院を建てる際にも砥部の砥石が使用されたとされ、この砥石が砥部の名前の由来となったと言われています。
江戸時代に入ると、砥石のくずを用いた磁器生産が始まり、砥部焼が誕生しました。今日、砥部焼はその美しさと技術の高さで広く知られ、地域の誇りとなっています。このように、砥部町は砥石の歴史と共に豊かな文化を育んできたのです。
砥部町は、古のロマンを感じる遺跡群や伝統文化、工芸などが多くあることから「アートの里」とも呼ばれています。私たち砥部焼観光センター炎の里も「千山窯」といった窯元を運営し、砥部町の文化の発展に寄与して参りました。
また今日では、地元のデザイン学校の陶芸科に通う高校生たちの活動に対し、焼き物の専門家として協力しています。彼らが砥部の歴史や魅力を発信するサポートを行い、未来の砥部をさらに輝かせるための取り組みに力を注いでおります
「千山窯」のご紹介
ABOUT TOBEYAKI
砥部焼とは、炎の里がある四国・愛媛県砥部町を中心につくられている陶磁器のことです。砥部焼は、やや厚手の白磁に「呉須」と呼称される薄い藍色の手描きが特徴となっており、花器や食器が多く存在します。ほとんどが手造りにて成形されている砥部焼独特の風合いは多くの人々を魅了しています。現在この砥部焼は、愛媛県の指定無形文化財に指定されています。
砥部焼の歴史は江戸時代にさかのぼります。大洲藩は加藤泰候(かとうやすとき)の時代に藩の財政を立て直すため、砥石くずを用いた磁器生産を杉野丈助(すぎのじょうすけ)に命じます。杉野丈助は砥石くずの運びが容易な五本松村の丘陵地に登り窯を築き、制作に取りかかります。しかし磁器づくりは困難を極め、杉野丈助は自身の資産を投げ出してまで制作を行います。
そして、磁器づくりから3年という月日を経て、白磁に藍色の手描きが加えられた焼き物を作り出すことに成功します。これが今日における、砥部焼の始まりです。
明治時代に入ると廃藩置県の影響から、工芸技術者の往来が盛んになります。それまでは各々の藩が抱え込み門外不出とされた陶芸・陶磁器づくりの技術は方々へと流出し、唐津や瀬戸、そして京都といった当時の先進地の情報も砥部に伝わるようになり、砥部焼は量産できるようになりました。明治5年頃には現在の伊予郡松前町である松前の唐津船で、全国へと販路を広げていき、多くの人々に砥部焼は認知されるようになります。
1976年には、国の伝統工芸品に指定されるようになり、現在では独立して窯元となる職人も見られ、様々な日用工芸品が生み出されています。